管理人:thenk
サイト名:画帳
IAM:
すきなことを!
すきなように!
たびんちゅ。
スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.--(--)

スポンサー広告

ローマ建築


ローマ建築

このローマ建築も世界史で勉強したローマ帝国の時代の建物です。
ローマ帝国といえば、地中海の辺りにどんどん広がっていった国ですね。

この広がっていく中で、ギリシャ建築や東方の建築を吸収して行き
地域によって少し建築が違ったりするそうです。

ーマ建築では
ローマン・コンクリートという今のコンクリートとは違うコンクリが使われました。
これによって、大空間を作ったり、建築のプレハブ化が出来たそうです。
またアーチや、アーチを応用したヴォールト(かまぼこ型の筒)が使われました。
アーチは小さな部材同士の圧縮軸力で構造が成り立つ性質をもっていて
ヴォールトは広い空間を柱の数を少なく支えることができます。
アーチやヴォールトはこの後の建築様式に影響をたくさん与えています。


ーマの建築

水道橋
アーチを使った長い橋を作れるようになりました!
市内に水を運んだんですね。


闘技場
これまたアーチ。円形にしてすり鉢状になってます。
とっても大きいです。すごいです。
今で言う野球場(サッカー場などの競技場)ですね
有名なコロッセオでは45,000人から55,000人収容できたそうです。


劇場
もとはギリシア建築からなんですが、詳しいのは面倒なんで、無しってことで。
すり鉢状。


公衆浴場
大きな浴場には講義室、ギャラリー、図書館、店舗などが組み込まれたそうです。
市民の娯楽施設だったんでしょうね。今と大差ない気がしますね


バシリカ
建築の平面形式のひとつ。
中央の身廊の2辺ないしはそれ以上の辺を、側廊によって取り囲むものをいう。
身廊と側廊は列柱によって分けられる。
丸々コピー↑失礼します;
今後キリスト建築に使われるようになります。
この時代には裁判だったり、取引所などに使われた、集会施設です。

フォルム
初期は商人が店を開く単なる広場だったが、
ギリシアのアゴラから着想を得た列柱が導入されるようになりました。
市を開いたり、剣闘士の競技を見たりしたそうです。
悪天候の時には代わりに、バシリカを使ったとか

クリア
定刻初期の建築家ウィトルウィウスは
立面は底辺の長さよりも高く設計しなければならないと言っています。
この建物はローマ市では元老院の議場として機能しました。
地方都市では都市参事会(オルド・デクリオヌム)が用いるホールだったそうです。

フォルム・バシリカ・クリアはセットになっていて、
町の中心だったそうです。


ドーム
ローマ建築の代表です!
単純なですが。大きな半球ドームと頂点から差し込む光によって
象徴的な空間となっているそうです。
実際みたいです。
聞いた話では宇宙を表現してたり、子宮だったり。
あまりにも完成された空間なそうです。

そんな建築作り手ええええええええ



レハブ化

ローマン・コンクリートが多用されるようになり、
当初は割栗石を積み上げただけの不規則なもので、その上に漆喰を塗って済ませていました。
やがて、表面の仕上げもかなり意識されるようになります。
煉瓦と凝灰岩を交互に重ねることも行われており、これはコストを安くあげるための措置でした。
建築に煉瓦が採用されるようになると、ローマ郊外では煉瓦を多量に生産する工場が建設されました。
ローマの建築資材はほとんどのものが規格化されており、共和政末期には煉瓦などは大規模な工場で生産・備蓄され、基準寸法と数量による発注と配達が行われていた。大理石は、共和制時代にはギリシア、エジプトから輸入される希少資材だったが、ティベリウス帝によってイタリア各地の石切り場が開設され、煉瓦と同様、大量生産のシステムが確立された。大理石円柱の寸法は規格化され、事実上、プレハブ化されたので、他の建築から同じ規格のものを移築することもできたそうです。


↑コピー失礼します。
再利用できる規格化。コストを下げる規格化。すばらっしい!



宅建築以下コピペ

ローマの典型的な住居建築は、中央のアトリウム(中庭)に開かれた平屋建ての都市型住居でギリシア起原のドムス、多層型共同住宅であるインスラ、郊外型の住宅であるヴィッラの3種に分けられる。比較的裕福な人々はドムスを構えることができたが、都市部では圧倒的に賃貸型のインスラにすむ人々が多く、現代でもみることのできる古いヨーロッパの町に似た風景が広がっていた。ヴィッラは郊外や避暑地に建設される邸宅で、上流階級の人々のみ得ることができた。

ただし、公共建築に比べると、住宅のような私的建築物は地方色がたいへん強く、地中海から離れるほど、その土地の伝統的形式で建てられたと言って良い。例えば、ガリアの住宅は基本的に質素なもので、ローマの基準からするとほとんど小屋と言って良い。イギリスで発掘された住宅などは、地中海方面の住宅建築とは全く異なり、ほとんどの場合、中庭はない。人口密度が低かったことに起因するらしいが、住宅は庭に囲まれた建物でベランダを持ち、各部屋へはこのベランダを介して行き来していた。








まとめれん。紹介しただけになったし、最後は疲れてコピペ。
いつか直そう。今日は疲れた与太郎。
引用は
ウィキペディア様でした。


続き個人メモだから見てもイミフ

個人メモ うぃき引用
ローマの都市構造

都市を新規に構築するにあたって、その計画を逐一立案するのはたいへんな労力と想像力を必要とするため、ローマは都市の構造を一定の原則に沿って構築ローマの新設都市は、地中海東部に普及していた幾何学的な構造を有する、いわゆる「ヒッポダモス式都市計画」[58]の系譜に連なる。ローマ人は、都市を一辺2400ペース[59]、100ヘレディア[60]の正方形に整然と区画する手法を用いたが、さらに東西南北に大きな幹線道路を通している。これは、都市建設に際して用いられた基軸となる測量線を道路に整備したもので、南北に通る大通りを「カルド・マクシムス」、東西の大通りを「デクマヌス・マクシムス」と呼んだ。デクマヌスは正確な語源は不明であるが、カルドは蝶番や軸を意味し、天空がこれを軸にして回転しているということを示す。都市の創建者は儀式に則って、はじめにこの二本の軸線を決定し、都市の輪郭となる部分は鋤で土を掘り起こしつつ溝を切った。この溝は「ポメリウム」と呼ばれ、都市を他と聖別する重要な溝であった。測量技師は「グローマ」と呼ばれる機器を用いて測量を行い、都市を碁盤目状に区切っていく(これによって整形される街区を「インスラ」と呼ぶ)[61]。ポメリウムの内側には矢狭間を持つ市壁が建設され、デクマヌスとカルドの延長に四つの大きな城門が設けられた[62]。都市の中心にはムンドゥスと呼ばれる穴が掘られ、そこに供物が供えられた[63]。ローマの歴史家たちによれば、これらの儀式はローマ人がエトルリア人から教示されたものとされている。実際に、都市建設の儀式で大地の神が重要視されていることや、都市を守護するカピトリウムの三室内陣を持った神殿は、エトルリア由来のものである。都市の外部も正方形に区画されており、これらは農場として個人分配された。しかし、都市が経済的要因によって膨張すると、幾何学的構造は失われ、まったく異なる形態の都市が形成された。1世紀末に造営された植民都市であるクイクルム(現ジェミラ)は、カルドとデクマヌスが通り、両道路の交差部分にフォルムを持つ都市であったが、2世紀に都市の人口が市壁内に収容できる限界を超えると、南に拡張された。かつての南門は都市の新しい中心になり、市壁の外側にフォルムとセウェルスの神殿、バシリカが造られることになったが、新しい市街はそれまでの都市形態とは異なるものであった[64]。カルド・マクシムスはほぼそのまま延長されたが、旧市街の通りにあるような列柱廊は形成されず、デクマヌス・マクシムスらしき道路は直線ではなく、完全な曲線である。概してその形態はフォルムを中心とする放射状で、旧市街ほど明確な構成を持っていない。タムガス(現ティムガッド)もまた、1世紀末に建設された都市だが、やはり正方形のローマの伝統的な都市構成であった。ティムガッドは、カピトリウムのある市壁の西側に都市が拡張され、セルティウス市場などが建設されたが、この新しい街も、クイクルムと同じく規則性を持っていない[65]。このように、繁栄を遂げた都市は、膨張するにつれて最初の骨格が不明瞭になっていく傾向にあり、また、ローマ帝国滅亡後に生き残った都市も、長い年月の間に碁盤目状の構成が失われ、迷宮化していくようになる[66]。周到に計画された都市構成が、都市の成長とともに混迷していく様は、首都ローマにおいても鮮明に現れている。

スポンサーサイト

2010.03.02(Tue)

西洋建築史 // コメント-0件 // トラバ-0件

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ見せる

トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。