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ビザンティン(ビザンツ)建築

ビザンティン建築

ビザンティン建築はローマ建築の優れた工学・技術を継承し、
早い段階で技術的成熟に達します。

ザンティン建築の建物は宮殿・住居などの世俗建築は図版や文献も含めてあまり残っておらず
初期キリスト教建築と呼ばれる建築群については、原型のまま残っているものはないものの、
文献や遺構の調査によってその全貌が知られています。
ですので、今回は初期キリスト教建築についての話になります。

4世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国では国教となったキリスト教の礼拝空間が形成されます。
これを特に初期キリスト教建築と呼ばれています。
前回のローマ建築で出たバシリカの空間を礼拝堂としました。
これはローマの神々を祭る異教礼拝堂(神殿)を思わせないバシリカを採用することで礼拝空間を確立したのです。
ローマ建築におけるバシリカは集会や裁判などに使われていたので、キリスト教の宗教儀礼は一般信徒と司祭が参加する集会的形態であったので、宗教空間としては有効に機能したと推察されています。

ルティリウム
初期キリスト教建築として特筆すべきもうひとつの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)です。
324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設されました。
崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られました。
また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となりました。
霊廟のことだよね?
sanpietoroseidouheimen.gif800px-Basilica_di_San_Pietro_1450.jpg

その時代のサン・ピエトロ大聖堂
平面図は礼拝堂とキクルス(闘技場)
引用ウィキペディア

スティニアヌス帝時代の建設事業
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代はコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂など偉大なキリスト教建築物が建設されました。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なものです。
なので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではありません。各地ではバシリカの教会堂が継続して建設され続けていました。
しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には後にビザンティン建築では一般的となる特徴がみられます。
複雑な組積構造のため、独立柱と水平梁が衰退した点とバシリカとドームを融合するプランが形成された点です。
独立柱や水平梁はギリシア・ローマの建築でした。これが組積造(レンガや石などを積み重ねて作る)
になり構造的意味を失いました。バシリカとドームが融合され、バシリカドームといわれました。
バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されます。

ーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカと呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂です。
平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)のがあります。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式です。
蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-Domed Basilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもあります。†←平面としてはこんなの十字の部分にドーム

円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまいます。
内接十字型は正方形平面のなかにギリシア十字型の身廊・袖廊を内包しており、中央部にペンデンティヴを備えたドームがあります。
ンデンティブドーム-半球形ドームの一部を切り落とし4つの点と4本のアーチによって支持されるドーム
意外と小さい空間スクィンチ式ってのは大きいらしい

期ビザンチン建築
中期東ローマの教会堂は私的礼拝のために建設されたものだったため大きな空間は要らず
ドームを持つ集中形式が好まれるようになりました。この時代の東ローマ帝国はハギア・ソフィアのような大規模建築物を建てられるような国家体制ではなく、
建築的関心は修道院の教会堂建設に向けられていました。
貴族の寄進に頼るこれら中期ビザンティンの教会堂建築に大規模なもの存在しませんが、
その代わりに外部空間はかなり意識されるようになったようで、
内部空間の重要性に変わりはありませんでしたが、
中央聖堂は修道院中庭に孤立して建設されたため、外部を装飾する意識が生まれました。
この頃から内接十字型。

期ビザンティン建築
末期ビザンティン建築も建築的関心は修道院建築にありました。
そのほとんどは既存教会堂の増築・改築であり。この際、外部にナルテクス(廊下状の前室空間)が回され、ポーティコ(列柱のある玄関またはアーケード)付きの正面を形成することが多く、この形状はヴェネツィアからもたらされたのではないかとの指摘があるそうです。
ポーティコ付ファサード(建物の正面)は、教会堂以上に住居建築に採用され、コンスタンティノポリスのポリフィロゲニトゥス宮殿(現テクフルサライ)にもこの形状が認められます。
800px-Palace_of_Porphyrogenitus_2007_016.jpg
ウィキより1階のところがポーティコ

そして亡命政権が各地に樹立されることによって、ビザンティン建築は必然的に多様化することになります。

やっぱりまとめれんかった。
ってゆーかビザンツ建築はガッコや図書館の本で詳しく書いてなかったから知らん事尽くしだったわ。
授業ではペンデンティブドームのことしか習ってないんだぜ?ありえんっちゃ;;
もおおおっと簡単にまとめれるようにしたかった。未来書き直す。
引用はほっとんどウィキペディアさま。
続きは個人メモ

うぃき引用

修道院での慈善施設
ローマ帝国では、公共業務は都市の有力市民層によって運営されていたが、都市の衰退とともに有力市民層も没落すると、それは教会によって維持されることになった[42]。キリスト教組織は、すでに国教化以前から積極的に慈善活動を行っていた4~5世紀各地域の主教が慈善施設の設立について重要な役割を果たすようになり、病院や救貧院といった施設を創設し、これを管理するようになった主教は教会内部に宿泊施設、救済施設、病院、孤児院、養老院といった施設を設け、これらを維持するように計らう責任があることが明確に示されたパントクラトールの病院は、外科的治療、眼・腸などの疾患治療、女性患者の治療、その他の5部門に分かれ、専門の医師、助手、補助員、女性スタッフらが常駐する。入院患者のために合計で50床のベッドが用意され、院内には暖房用の暖炉が男性用に2、女性用に1つ設けられる。トイレは男性用、女性用がそれぞれ一カ所あり、夜間でも明かりが灯されていた。治療には入浴が重要視されていたため、浴室も設置されていた。主聖堂とは別に、患者のために男性用と女性用の教会堂がそれぞれ設立されていた。主に貧困層を対象(とはいえ、極貧の者は対象ではなく、必ずしもすべての患者が貧困層というわけでもなかったが)にした医療機関だが、かなりの運営費用が割り当てられており、また今日の病院に匹敵するほどの高度な組織的運営が行われていたとする研究もある

都市
中央政府の介入が増大したため、公共活動は中央官庁の官僚組織、あるいは教会組織に継承されたが、フォルムやクリアなどの大規模な公共建築物は東ローマ帝国時代には建設されなくなった。
都市生活自体もローマ帝国の時代から変化しており、体育館や競技場の利用は著しく低下した。劇場は競技場よりは活用されたが、上演されるのは喜劇や卑猥な演目になったため、教会から度々禁止令が出され、やがて放棄されていった。ローマ都市の中心部にあった神殿は、キリスト教が国教になったために廃れ、392年にテオドシウス1世が異教崇拝の禁止を発した後、廃棄されるか破壊された。
このような変化に伴って、古代に建設された公共建築には徐々に住居が建て込まれるようになり、人口密度は高くなったが、公共スペースの喪失によって市街地は縮小した。異教の神殿は6世紀頃にキリスト教聖堂として使用されるようになったアテナイのパルテノン神殿やテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどを除いて、石切り場、あるいは柱や彫刻などの転用材の集積場となった。
このような古代都市に比べ、東ローマ帝国の時代に新設された都市、あるいは古代の町村を拡張した都市は少ない。また、首都コンスタンティノポリスを除けば、東ローマ帝国時代の都市は、古代ローマ時代の都市よりもずっと小規模である。ほとんどがユスティニアヌス帝によって開都されたが、ユスティアナ・プリマ、セルギオポリス、ダラ、ゼノビア(現ハラビエ)といった新設都市は、国境防衛のための軍事拠点であった。一般に、強固な城壁に囲まれた場所には兵舎が建設され、ローマの都市と同じくカルドとデクマヌスを軸とする規則正しい都市計画が採用されている。一般市民はその外側に生活の場をおく農民で、緊急時には城壁内に避難する生活であった。住居は粗悪なものであったので、建物の平面ですら確認するのが困難である。このような緊張状態にあって、ローマ時代から続く都市も完全に要塞化し、城壁に囲まれた軍事拠点とそれを取り囲む一般住宅という中世都市のスタイルが一般化した。

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2010.03.02(Tue)

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